日本人移民とサーモン
日本人が出稼ぎや移民として、サーモンの缶詰工場が林立するスティーブストンにやってくるきっかけをつくったのは、和歌山県三尾村(現・美浜町)の工野儀兵衛という人物でした。1888(明治21)年、横浜経由でバンクーバーにやってきたこの人物は、故郷に向けて「フレーザー川にサケが湧く」と連絡したのです。
この報を受けてスティーブストンにはたくさんの三尾村出身者が住み着くことになります。サーモン漁やサーモンの缶詰工場での仕事以外に、バンクーバー周辺では多くの日本人が製材所で働いていました。もちろん、カナダ太平洋岸にたくさんの「巨木の森」があったからこそです。こうした様子は2014年公開の「バンクーバーの朝日」という映画にも描かれています。当時、白人から差別を受けていた日系2世の若者たちが野球チーム「バンクーバー朝日軍」を結成、体力差を補う頭脳プレーで勝利を重ね、白人からの尊敬を勝ち取っていくという物語ですが、映画では亀梨和也さん演じるエースピッチャー、ロイ永西が漁師、妻夫木聡さん演じるレジー笠原らは製材所で働いていました。
しかし1941年の太平洋戦争勃発により、日系人はカナダ政府によって敵性外国人とみなされ、すべての財産を没収の上、内陸部の強制収容所へと送られることになります。朝日軍の選手も散り散りになりました。終戦から40年以上経った1988年、当時のマルルーニー首相と日系カナダ人協会会長、アート・ミキさんの間で戦時中の措置に対し個人補償を行う「日系カナダ人補償協定」が署名されました。アートさんはバンクーバー生まれの日系3世。一家で内陸部の砂糖大根の畑に強制移住させられたのは、アートさんが5歳の時でした。戦後、スティーブストンに戻った日系人は、サーモンの缶詰ではなくニシンから油や肥料をつくるようになっていた工場で、ニシンの卵、つまり「数の子」を日本に輸出するといいとアドバイスし、工場の売り上げは一気に増えることになります。
また和歌山県の人たちが持ち込んだ温州ミカンは今もクリスマスオレンジと呼ばれ、冬のカナダで人気を集めています。今、日本からの温州ミカンの輸出先のトップがカナダ、逆に日本に最も数の子を輸出しているのがカナダです。サーモンをきっかけに生まれた日本とカナダの「TSUNAGARI」は、悲しい出来事を経ながらもそれを乗り越え、さらに絆を深めているのです。